三階席のメモ

自身の備忘録。気まぐれで追加していきます。

四代目中村雀右衛門

人物像

高橋睦郎

山川静夫

その歌右衛門のことを尊敬していたのが、四代目雀右衛門です。歌右衛門とは三歳しか違わず同世代といってもいいのに、雀右衛門はつねに謙虚で歌右衛門を尊敬し、指導を受けていました」

高橋睦郎

なにしろ尊敬し続けていましたね。雀右衛門にはかわいがってもらって、ずいぶんお酒も飲んだんです。酔っ払わせて歌右衛門の悪口をいわせようとするんだけど、どんなに酔ってもいわないの「あなたね、わたしがなんとかやれてるのもお兄さんがいらしたからなんだよ」って感じでねぇ。苦労したぶん、本当に優しい人でした。だから歌右衛門も自分の代役ってほとんど雀右衛門に頼むんです。朝早く電話がかかってきて、「青木さん、お願いね」のひとことで(笑)。

 

雀右衛門の謙虚さを表す思い出があります。舞台を観たあと楽屋に行って褒めると、「むっちゃん、明日はもうちょっといいから」。楽日に行くと、「いやあ、この次やるときはもうちょっとよくなるから」(笑)

(「百点対談 名優に捧げる句」『銀座百店』2022年4月 №809)

六代目中村歌右衛門

 

人物像

高橋睦郎

中曽根首相招待の会での、歌右衛門のあいさつを思い出します。(歌右衛門の声色で)「みなさん、最近はこの歌舞伎の若い方々もたいへんおえらくおなりになって、昔はちゃんと先輩方に習いに行ったんでございますけれども、最近はね、あなた、ビデオという便利なもので練習をなさるんでございますよ。でも、みなさま、やはり芸というものは手に手、足には足というふうに教わって覚えるものではございませんかしらね、ま、場違いに悠長な話をたいへんに失礼いたしました」

と声色混じりに回想している。

それに歌右衛門はお客さんというものを差別しない、どんな人が観に来ても、毎回とても丁寧になさったでしょう。たまにお客を見て投げる癖のあった十七代目勘三郎が、いつだったか、そのことを感に堪えたようにつくづくと、「藤雄さんは立派だねえ」といっていました。

時代が平成に移ったばかりのころ、雑誌に時評を頼まれて、「天皇崩御されるまでの一年、わが国の男性原理を代表したのは天皇だったが、女性原理を代表すべき皇后はご病気だったので、わたしの独断と偏見によれば、女性原理を代表していたのは女方である中村歌右衛門だった」と書いたんですよ。そしたら、それを読んだ成駒屋から夜十時過ぎに電話がかかってきたんです。「夜分に、ま、恐れ入ります」と聞いた瞬間、背筋がゾクッとして飛び起きました。「こちら、中村歌右衛門でございます。お書きになったお文章ね、ま、たいへんに結構に、天皇さまのところを最初からおしまいまでね、拝読いたしましたんでございますよ。ま、それからもう一度、最初からおしまいまで拝読いたしましてんでございます」って(笑)。

山川静夫)「もう芝居として成立してますよ」(笑)。

普段の生活から舞台に立っている人でしたからね。舞台と実生活が見事に一致していました。

(「百点対談 名優に捧げる句」『銀座百店』2022年4月 №809)

山川静夫

不世出の女方で、歌舞伎そのものを体現していました。舞台稽古なんか観てますと、自分の役だけじゃなくて、全部の役のセリフと所作まできちっと入っているんです。だから目が行き届いていて、「ちょいとあなた、それは片手で持っちゃいけないの。両手でこう持つの」とか、実に親切に教育していました。

(「百点対談 名優に捧げる句」『銀座百店』2022年4月 №809)

 

 

當世流小栗判官

作品

 

中世の説経節に源流を持つ小栗判官物の世界を取り込む。

 

・初演 昭和58年7月歌舞伎座

 

伝承

市川笑也

「旦那(猿翁)が『ザ・カブキ』(昭和五十六年・梅田コマ劇場)で和藤内をなさった時に、虎の後ろ足に入りました。その時の演技で抜擢されたんです」

前足の市川猿十郎ともども鬼鹿毛の中に入った。立師は市川段猿。「『やまがた、やまがた、入れ替わってやまがた』とタテの説明を受けたので、『馬のやまがたは、どうしたらいいんですか』。そうしたら『自分で考えろ』と言われ、猿十郎さんと相談しました」

襖を跳び越すところについてーー

鹿毛は正面の襖を破って現れ、立廻った挙句に襖を跳び越す。馬の胴を被らない稽古では難なくできたが、馬の中に入ると「後ろ足は下しか見えません。前足の猿十郎さんが跳び越えられても、こちらは先がどうなっているかわかりませんでした」

仕方なく、最初は襖を跳び越さずに、踏み倒していた。ただ五日目の朝。競走馬が障害物をスローモーションで跳び越す夢を見た。

「起きた時に、これはいけるんじゃないかと思い、猿十郎さんに『今日は跳びましょう』私が猿十郎さんを持ち上げて襖の向こうに放ります。着地したら、二、三歩前に出てください。そうすれば私が移動できます。それで足で襖を蹴って飛ばして入りましょう』と持ち掛けました」

稽古もなしに、本番で共演者に襖を横にしてもらい、見事に跳んだところ、客席は大いに沸いた。

「それが型になって今まで続いています」

(『ほうおう』令和4年8月号(通算531号))

 

お駒について(笑也が演じた際の役名はお槙)

「旦那のお駒をお手本に演じていると母親役の(九世澤村)宗十郎さんが渋い顔をなさる。お詫びをしたら、『お前さん、師匠のビデオで稽古したんだろう。あれは立役がやる女方だ。女方がやるのは違うんだよ』と言われました。『直したいので、教えていただけますか』とお願いしました」

平成5年7月の歌舞伎座で照手姫に配役された。

(『ほうおう』令和4年8月号(通算531号))

夢の女

 

作品

永井荷風原作。久保田万太郎脚色。

・「花柳十種」の内の一つ。

伝承

田口守

「花柳先生の初演、再演、うちの師匠(初代水谷八重子)の初演はまだ入団していませんでしたが、昭和五十四年国立劇場での上演に際に師匠が亡くなり、良重さん(二代目水谷八重子)が代役を勤めたことは印象に残っています。」

(『ほうおう』令和4年10月号(通算533号))

 

小山典子

「そのあとは(坂東)玉三郎さんが引き継いで、平成五年に玉三郎さんが監督なさった映画が知られています。あたしも田口さんも役は違うけど出ています。映画のお浪は吉永小百合さんでした」

「この話の背景というか登場人物たちの絡みのあちこちに明治という時代の雰囲気が出ていていかにも新派らしい雰囲気を感じるわ。あたしは花魁になる前のお浪さまに仕える婆や役で因縁を結ぶのですが・・・。(田口)「大人の口調から滲み出す雰囲気ね。この芝居、じわ〜ぁと心に何か感じさせてくれる。」

(『ほうおう』令和4年10月号(通算533号))

 

四代目中村梅玉

人物像

重要無形文化財保持者に認定されてのインタビュー

「歌舞伎の本道を進み、品のある役者を目指さなければいけない」という父の教えを胸に歩んできたこれまでを振り返り

(中略)

「父の教育方針は間違っていなかったと、今、さらに感じます」と心境を口にします。「七十歳になっても前髪の似合う役者でいたいというのが、若いころからの目標でした。七十歳を越してもそうした役ができているのは、気を若くもっているからだと思います」

(『ほうおう』 令和4年10月号(通算533号))

松浦の太鼓

 

・作品

秀山十種の内の一つ。

・型 演出

・伝承

2松本白鸚

令和4年九月、二世中村吉右衛門一周忌追善の「秀山祭九月大歌舞伎」の第二部で、松浦侯を80歳で初役で勤めて。(大高源吾は初世白鸚、二世吉右衛門仁左衛門の松浦侯で3回演じている。)

「祖父(初世中村吉衛門)の松浦侯は見たことがありませんが、せりふを覚えていると、祖父の口調が思い出されてまいります」

「松浦侯はこうと思ったら突き進む純粋な方ですよね。そしてちょっと幼いユーモラスなところがある。父の松浦侯には加えて品格がありました。私も位取りを失わない様に演じるつもりです。」

「あえてそう謳いはしませんでしたが、もう二度と松浦侯を演じることはないでしょう。『一世一代』のつもりで勤めます。八十歳で初役をするのは、弟(二世吉右衛門)を思ってのことだけです」

(「ほうおう」 令和4年10月号(通算533号))